スペシャル

ジャコモ・プッチーニ|Giacomo Puccini

1958年12月22日イタリア・トスカーナ地方のルッカ生まれ。1924年11月29日没。
代々続く宗教音楽家の家に生まれるが、ヴェルディのオペラに接したことからオペラの作曲家を目指すようになったという。やがてミラノの音楽院に学び、音楽出版社が主催する1幕ものオペラの作曲コンクールに応募。受賞はかなわなかったが、応募作品の『妖精ヴィッリ』はのちに舞台化される。1893年、第3作『マノン・レスコー』が大成功となり、一躍、その名を上げる。さらに『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』と立て続けに大当たりをとり、当代随一のオペラ作曲家の名をほしいままにする。だが、1900年代の初め、自動車事故を起こして足を骨折。しかも、よき協力者であった台本作家のジュゼッペ・ジャコーザが亡くなったことから、しばしのブランクを経験する。そして'07年、渡米をきっかけにデイヴィッド・ベラスコの戯曲をもとにしたオペラ『西部の娘』に着手することになるのだった。
プッチーニを語るうえでつねに注目されるのは、その華やかな女性関係。妻エルヴィーラとのなれそめから、学生時代の友人の妻だった彼女にピアノを教えるかたわら愛を教え、ついには駆け落ちというエピソードもよく知られる。また、ヴァグナーのオペラを観賞するのに、夫婦と偽って人妻とバイロイトに宿を取ったりと、色恋沙汰にかんするエピソードは数えきれないほど。さらに、プッチーニは自らの経験と女性遍歴を、オペラの筋立てとヒロインに重ね合わせて構成させているともいわれており、事実、『ラ・ボエーム』は自身の青年時代の思い出が色濃く反映されているといわれる。
実際、プッチーニは根っからの誘惑者だったようで、女性を魅了するのに帽子のかぶり方ひとつ、しゃべり方ひとつにも気をつかうほどの洒落者だったとか。ベンヴェヌーティ監督は、〈イントレランス〉の学生たちとの調査の過程で生前のプッチーニを写したフィルムを発見し、それを参考に主演のモレッティとともにプッチーニ像をつくり上げていった。
監督インタビュー
ジャコモ・プッチーニ

ドーリア・マンフレーディ事件|scandalo di Doria Manfredi

 1908年から09年にかけてのこと。プッチーニ家でメイドとして働いていたドーリア・マンフレーディと夫プッチーニとの関係を、妻のエルヴィーラが疑って、ドーリアを責めたてた。'09年の1月、ドーリアは思いあまって服毒自殺を図る。のちにドーリアに対する嫌疑は晴れるのだが、彼女の遺族によってエルヴィーラは告訴され、スキャンダルへと発展。この間、プッチーニ自身もスキャンダルに巻き込まれ、取りかかっていたオペラ『西部の娘』の作曲も進まないまま、エルヴィーラとの仲も一時、疎遠になったという。結局、プッチーニは多大な和解金を支払うこととなるのだが、ドーリアはプッチーニのほんとうの愛人を知っていて、秘密を漏らさないために自殺したとも言われている。
ドーリア・マンフレーディ事件
ジャコモ・プッチーニ

監督インタビュー

監督が語る『プッチーニと愛人』

 「ことの発端は、私が脚本をどんなふうにして書くのか、〈イントレランス〉の学生たちが興味をもったことだった。私は脚本を書くとき、徹底した歴史的リサーチを行う。学生たちが同じ方法論を試してみたいと言いだし、それがスタートとなった。2001年のことだった。
 その過程でまず、1909年1月に自殺したプッチーニ家のメイド、ドーリア・マンフレーディについて調べることにした。学生たちはさっそく、トーレ・デル・ラーゴの長老たちから話を聞こうとしたのだが、ほとんどマフィアまがいの沈黙の掟にぶつかってしまい、やむなく聞き取り調査はあきらめ、プッチーニにかんする膨大な文献と、ルッカにあるプッチーニ研究センターに保存されていた、とくに1907年から10年にかけての書簡について調べることにした。
 調査を続けるうちに、ひとりの学生がたまたまある本のなかで見つけた記述に驚いた。アルド・ヴァッレローニによる『Puccini minimo』と題された書物で、そこには、こんなふうな記述があった──「プッチーニの有名なドン・ファン症候群は、それ自体が目的ではなく、彼の創作に大きな役割を果たしていた」と。つまり、プッチーニは新たなオペラに取り組むたびに、その作品のヒロインに似た女性と恋に落ちたがったというのだ。そして必然的に、そのオペラが完成すると、その相手との情事も終わる運命にあった。このことについて、著者はさまざまな例を挙げていたのだが、『西部の娘』にかんしては、それに相当する女性を見つけられなかったようだった。
 私たちはそれを読んでハッとした。ドーリアは、プッチーニが『西部の娘』を書いていたときに自殺した。彼女が『西部の娘』のヒロイン、ミニーのモデルということはあるのだろうか? だが、検討すればするほど、ドーリアとミニーとの間に共通点などないことが明らかになっていった。ということは、ミニーには実在のモデルはいなかったか、あるいはほかに女性がいたのか。
 学生たちはトーレ・デル・ラーゴを再び訪ね、ジュリアという別の女性がいたことを突き止めた。彼女はドーリアの従姉妹で、プッチーニ邸に向き合った湖上にあった酒場を経営する男の娘だった。身長180センチの大柄な彼女は男勝りで、狩りをしても男に負けないライフルの腕を誇ったという。ジュリアの話題になると沈黙の掟は破られた。誰もがにやりと笑いながら話しだし、プッチーニとジュリアは愛人関係にあっただけでなく、生涯独身だったにもかかわらず、ジュリアは妊娠さえしていたと言う。しかもそれはプッチーニの子だったとも言うのだ。
 そこで私たちは、ジュリアが生んだ子どもの捜索に乗り出し、彼がピサに住んでいたことを突き止めたが、突き止めたものの、本人はすでに亡くなっていて、娘が存命であることを知った。私たちはその娘の足取りを追い、ついに彼女を発見したのだった。
  ジュリアが亡くなった1976年、その娘の父アントニオはトーレ・デル・ラーゴに呼ばれ、母の遺品をもらい受けた。それらはスーツケースひとつに詰め込まれて、ピサに戻った彼は、まるで自分と母親の過去を埋めてしまおうとするかのように、開けてみようともせずに隠してしまった。その30年後、2007年に私がアントニオについて訊きに来るまで、そのスーツケースのことは忘れ去られていたのだった。
 アントニオの娘に、彼女はプッチーニの孫娘かもしれないと話すと、彼女はハッとしてスーツケースのことを思い出した。そのなかには、ふたりの情事について書かれた、プッチーニからジュリア宛の1908年から1922年までの手紙や写真があった。さらにそれらの書類の下には、ブリキ製の丸いビスケット缶があり、そのなかにフィルムが入っていた。フィルムはくっついてしまっていてはがすのに苦労したが、プッチーニがピアノに向かっている1コマを見つけたときには心臓が止まりそうになった。私はそのフィルムをローマのラボへもち込んで修復してもらい、そこに生前のプッチーニの姿を見いだしたのだった。」
(ミケーレ・グェッラによるインタヴューをもとに再構成した)
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